延岡市南方地区の歴史や文化などを研究している「南方の歴史文化研究会」(会長・甲斐盛豊延岡史談会副会長、会員13人)の初となる研究成果発表会が3月7日、南方東コミュニティセンターで開かれました。
同会は、受け継がれてきた歴史や文化、言い伝えなどを掘り起こし、学び、研究史、記録として残すことで次世代に伝えていくことを目的に、令和6年4月に地元住民らで発足しました。今年度は延岡市の市民まちづくり活動支援事業の補助を受け、発会から2年間にわたって研究してきた成果をまとめた記念誌「いっぺこっぺ南方 創刊号」を発刊できる運びとなったことを受け、収録した研究成果を市民にお披露目することで、南方地区に対する理解を深めてもらおうと開催しました。
成果発表会には地区内外から約100人が参加しました。小峰町在住で延岡史談会副会長でもある甲斐盛豊(かい・もりとよ)会長があいさつし、「いっぺこっぺ南方創刊号の発行に際しては、地域の皆さんの温かいご支援、地元企業などからの寄付もあり感謝申し上げます」とお礼を述べた後、延岡史談会会長の甲斐典明(かい・のりあき)さんが「南方の歴史的背景について」の演題で基調講演しました。
その中で甲斐会長は南方という地区名のいわれや人口、区域の変遷などを説明したほか、9万年前までは愛宕山の西側から蛇行し現在の沖田川方面に流れていた五ヶ瀬川の流れが、阿蘇山爆発による火砕流の堆積物によって堰き止められ、流れが現在のように変わってしまったとした上で、「南方でお墓などに使う灰石がたくさんの採れるのは阿蘇の火砕流が堆積したからだ」などと話しました。
また、時代ごとに南方地区の歴史を振り返りながら、東九州を代表する3万年前の旧石器時代の遺跡である赤木遺跡や県内最古の大貫貝塚、国指定史跡である南方古墳群、古代の官道の川辺駅の存在など古代から南方は延岡地区の中心であったことを解説しました。中世になっても土持氏の居城だった西階城や松尾城、田宮遺跡などがあり、江戸時代に延岡藩の中心が城山の東側に移るまでは中心地だったことを、豊富な資料を元に強調し、「南方史を語ることは延岡史を語ることだ。古代以来、ここは延岡、もっと言うと臼杵郡の中心だった」と訴えました。

第2部の研究成果発表では、甲斐秀人(かい・ひでと)さんが、昭和20年6月29日の延岡大空襲の際、大貫町や野地町でも米軍の焼夷弾によるかなりの被害があったことが調査で判明したことから、落とされた焼夷弾の構造や当時の米軍に爆撃機にまつわる事実について言及しました。
高田裕満(たかだ・ひろみつ)さんは、五ヶ瀬川水系と南方用水路の歴史などを、創刊号に掲載した手作りの地図や国土交通省の資料などを基に解説しました。高浦哲(たかうら・さとし)さんは、大貫町、小峰町、野地町を中心に調査・研究した南方地区に伝わる方言について説明し、特に全国的に例のない方言としてクワガタムシを意味する〝かんげん〟について紹介し、「このかんげんは南方独特の方言と言っていい」などと話しました。
会場には、爆撃を受けた大貫町の民家に残る焼夷弾の弾頭やB29の模型などが展示され、来場者は興味深く観察する姿が見られました。



















