松の内が開けたばかりの去る1月16日、延岡市の祝子町周辺で地域に点在する庚申塔(おこしんさん)を訪ねる「祝子おこしんさん巡りフットパス」が開かれた。庚申塔や歴史的遺跡、文化人の足跡が多く残る祝子地区の活性化を図ろうと、猿田彦の会(松田宗史会長)が平成26年度から実施するフットパス体験の3回目。約30人が、祝子町坂宮の佐藤焼酎製造場を発着点に柚木-宇和田-鹿狩瀬-佐野を巡る約7・6キロのコースを歩き、祝子川周辺ののどかな風景を楽しみながら、10基の庚申塔の存在を再確認した。庚申塔は市内に数多く残る石塔の一種で、中国から伝わる道教の教えが背景にある。佐野町では現在も秋の収穫後の庚申の日に「おこしんさん祭り」が開かれている。さて、その“庚申”とは何か。“申年”にちなんで調べてみた。
庚申塔と猿田彦
体内の3匹の虫が天帝に報告
「庚申(こうしん、かのえ・さる)」の日は、暦の十干の7番目「庚」と、十二支の9番目「申」が重なる日で、60日に1回やってくる。その夜は「庚申待(こうしんまち)」とか「宵庚申(よいこうしん)」といい、昔から庚申祭が行われてきた。
人の体内に潜む「三尸(さんし)」(三虫ともいう)が、庚申の夜に人が眠りにつくと天に昇り、天帝に人の行動を報告し、悪事があれば寿命が短くさせられるという、古代中国の道教信仰に基づく風習。長生きを願う人々はその夜は眠らずに三尸が天に昇るのを防いだ、という。
道教は奈良時代には日本に伝わり、平安時代には貴族の間で庚申の日に詩歌管弦の宴を催したり、語り明かしたりする習わしが定着。室町時代になると民間にも「庚申講」ができ、供養塔が建てられ始め、江戸時代には村の相互扶助の組織として一層の広まりを見せた。集落の境界や辻付近に魔よけ、道標を兼ね、60年ごとに庚申塔を建て替えるようになった。
青面金剛、猿田彦大神などを祀る
一口に庚申塔と言っても、いくつか種類がある。延岡市内でも「奉待庚申」などの文字だけが書かれたもの、仏教系では「青面金剛(しょうめんこんごう)」の姿を彫ったもの、神道系では道祖神である「猿田彦大神(さるたひこおおかみ)」を祀ったものなどがある。
青面金剛はもともと伝尸病(肺結核)の治病の祈祷本尊。病原となる伝尸が三尸虫に通じることから、道教の天帝を帝釈天と同一視し、その使者である青面金剛を司命神としたからだとも言われている。
青面金剛像は、臂(ひ、肘のこと)が複数本(2~8)あり、それぞれに三叉戟(さんさげき)、棒、法輪、弓矢、剣、杖、蛇などを持ち、「ショケラ」と呼ばれる上半身裸の女人像の頭髪をつかんでぶら下げている。他に日月や三猿、鶏、邪鬼などが配され、頭の上に梵字が彫られたものもある。
神道系ではニニギノミコトの天孫降臨の折に道案内を務め、道祖神として祀られている猿田彦(さるたひこ)の「猿(さる)」が「申(さる)」に通じることから、庚申信仰と結びつき祀られるようになったようだ。
猿田彦の会が調査した祝子地区47基の庚申塔の中には、猿田彦大神が13基、青面金剛が9基あった。ただ、最も新しい庚申塔でも昭和7年(1932)の建立と、戦後に建てられた庚申塔はなく、戦後の復興期や、高度成長期の波とともにこうした信仰が急激に廃れていったことを如実に表している。
天孫ニニギノミコトの道案内役
古事記によるとニニギノミコトが高天原(たかまのはら)から地上に降りようと、天の八衢(てんのやつつじ)という分かれ道にさしかかると、一行の前に高天原と葦原中国(あしはらのなかつくに)を照らす神が立ちはだかりました。正体を調べるように命じられたアマノウズメノミコトがその名を問うと「国津神猿田彦(サルタヒコ)」と名乗り、道案内を申し出たと記されている。
ニニギノミコトはその後、アマノウズメノミコトに地上まで道案内をしてくれたサルタヒコを故郷まで送り届け、サルタヒコの名前を受け継いで仕えるようにと申しつけたため、アマノウズメの子孫は「猿女の君」と呼ばれるようになった。高千穂町にある荒立神社は、2人が結婚し白木造の社殿を建てた場所とされる。
「のぼりざる」の由来になった猿田彦
延岡市には、猿田彦にちなむ郷土玩具がある。「のぼりざる」である。
赤い顔に金筋入りの烏帽子をかぶり、背中には小鼓と白い御幣。足は白黒だんだらの脚絆で固めたいなせな姿。胸につけた竹の輪の中に竹が通り、菖蒲の絵を描いた“のぼり”が風にふくらむと、竿を上ったり下ったりする姿が、何ともユーモラスだ。
延岡観光協会が記した由来書によると、天孫降臨の際に道案内として大きな功績があった猿田彦だったが、粗暴な振る舞いが治らず、アマノウズメノミコトにいたずらをしたので、ニニギノミコトの怒りを買い、諸神の前で竿頭高く吊し上げられた。
サルタヒコは体が大きく、鼻が赤く、眼光鋭く猿に似た恐ろしい異形神だったので、人々は猿の群に農作物を荒らされると、猿の張り子を吊して猿への見せしめにするとともに、吊るし上げられたサルタヒコのユーモアと結び合わせて、その威力にあやかった。やがてこれが豊作を祈るしるしとなり、悪疫退散の魔よけとして戸ごとに立てられるまでになった。
内藤家が磐城平(福島県)から延岡に移封され城主となったころ、民政よく安定し、若君の初節句に城下は上下の区別なく大変なにぎわいだった。その時、城内の経師(きょうじ)らがお祝いとして“のぼりざる”を作って献上したところ、城主は大いに喜び、城中高く掲げた。それが慣例となり、次第に武士の間に広まり、武士の妻たちが暇を見ては作り、5月の節句に武運長久、悪疫退散、五穀豊穣、出世開運を祈念して鯉のぼりとともに、城内外に掲げるようになった、とされている。
申年の節句に「のぼりざる」を
申年の今年、延岡市ののぼりざるフェスタTogether実行委員会のメンバーを中心に、かつて各戸に立てられていたような大型の「のぼりざる」を、5月の節句の際にこいのぼりのように飾ろうという活動が始まった。屋外に6メートルほどの竹竿を立て、本体の高さ約30センチ、のぼりの長さ2メートルという大型の「のぼりざる」を飾りつける計画という。
神話の故郷・高千穂や延岡に縁の深い猿田彦や、その猿田彦を祀る庚申塔の存在について、改めて見直す絶好の機会かもしれない。