日向神話研究会副会長の杉本隆晴さんは、宮崎県北の日向神話の聖蹟を語る上で最も重要なのが、笠沙の岬(笠沙山=愛宕山)だと話されます。笠沙の岬が延岡にあることで、ニニギノミコトが天孫降臨した西臼杵高千穂から、亡くなって埋葬された北川町俵野の御陵墓に至るストーリーの信憑性が高まってきます。
愛宕山が今日まで江戸時代と同じ〝笠沙山〟の名称だったとしたら、明治政府が日向三代神陵を鹿児島県内に比定した時や、その後の日向神話の聖蹟を巡る論争もかなり様相が変わっていたかもしれません。
愛宕神社は全国に約900社あり、愛宕山も多く存在します。しかし、〝笠沙〟の名称がついた場所はほぼ皆無で、鹿児島県南さつま市の「笠沙町」ぐらいです。返す返すも残念だったと思います。
天孫降臨と新興の母
延岡の笠沙山は現在、「出逢いの聖地」とされています。杉本さんは、北川町俵野をニニギノミコトと西郷隆盛の「時空を超えた出会いの聖地」としてPRされてきた立役者ですが、今度は笠沙山についてニニギノミコトとコノハナサクヤメが出逢った「神代の出逢いの聖地」であるとともに、延岡新興の母とされる野口遵翁が延岡市民と出会った「近代の出会いの聖地」であるとして共通点を指摘されています。
ご存じのように、野口遵翁は旭化成の前身・日本窒素肥料株式会社を創業された方です。大正12年(1923)に操業した日本窒素肥料の延岡工場(現在の旭化成薬品工場)では、野口翁がイタリアで特許を買ったカザレー式アンモニア合成法を世界で初めて実用化させ、近代化学工業史に残る快挙となりました。
野口翁は当初、熊本県八代郡鏡町の鏡工場にアンモニア合成工場を隣接させる計画でしたが、排水の問題などで地元の承認が得られず断念していました。
工場敷地を探していた野口翁が相談したのが当時の恒富村議会議員で、野口翁が工場建設に先駆けて日之影町に造った五ヶ瀬川電力株式会社社長の山本彌右衛門氏でした。
延岡を訪れた野口翁を恒富村役場が案内した場所が笠沙山(愛宕山)でした。笠沙山から延岡平野を一望した野口翁は「五ヶ瀬川が流れ、水力発電所や工場用地もある良い所だ」と話し、持っていたステッキで「これぐらいの敷地がほしい」と円を描いたとされています。
延岡に新しい肥料工場を造ることを決めた野口翁に対し、山本氏はじめ、恒富村長の日吉幾治氏ら地元有志が積極的に協力したことで、延岡工場実現に至ったのです。
延岡にはその後、ベンベルグ工場、レーヨン工場、火薬工場などが次々に誕生し、世界を舞台に活躍する旭化成の基礎を築き上げました。 つまり野口遵翁が延岡市民と出会った「近代の出会いの聖地」 といえるのです。
翻って、ニニギノミコトと笠沙山の関係を見てみましょう。
日本書紀によると、ニニギノミコトは笠沙の岬で吾田邑(延岡)の国主であるコトカツクニカツナガサ(事勝国勝長狭)に出会います。そこで「国在りや以不(いな)や」と尋ねると、コトカツクニカツナガサが「此に国有り。任意に遊せ」と答えます。
古事記では「此の地は、韓国(空国)に向い笠沙の御前に真っ直ぐ通じ、朝日が射す国、夕日が日照る国なり。ゆえに、この地は甚だ吉き地」と仰せられ、宮殿(高千穂の宮)を建てて住むことにしました。
その後、オオヤマツミノカミ(大山祇命)の娘・コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)に出逢い、一目惚れして結婚します。さらに、ホオリノミコト(火遠理命=山幸彦)ら3人の皇子が誕生、大和統一を果たす初代天皇・神武天皇へとつながっていきます。
杉本さんは、主人公をニニギノミコトから野口翁に置き換えて考えると、背景、案内人、決断の聖地、最初の相談人、条件、結婚相手(誘致決定)、拠点となる施設、子孫(企業)拡大、東征(全国進出)といったプロセスが、酷似していると言うのです。
笠沙山は、「神代の出逢いの聖地」であるとともに、 野口遵翁が延岡市民と出会った「近代の出会いの聖地」 としてPRしていけると最高でしょうね。