新着ニュース

日々ブログ~あぃ あむ ひむか人~Vol.13 日向神話の本舞台12

神武天皇の東征出発

 日向神話のフィナーレを飾る人物が、カムヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命)、後の初代天皇・神武天皇になる人です。

 

 ニニギノミコトの孫に当たるウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)とタマヨリビメ(玉依姫)の間に生まれた4人の皇子の一番下の皇子です。

 記紀によると、イワレビコノミコトは45歳の時、吾田邑の高千穂の宮で、兄のイツセノミコト(五瀬命)らと「葦原中国(日本)を治めるにはどこにいくのが適当か」と相談しました。

 

 そしてシオツチノオジ(塩土老翁)から聞いた「東にある美しき地は、四方を青山に囲まれ、既にニギハヤヒノミコト(饒速日命)が天降っている」という大和国(奈良県)を目指し、出発することになりました。

 

 その出発の地とされているのが、日向市の美々津です。

 

 地元の伝承などによると、神武天皇は、美々津で船の建造にかかります。指揮をとる忙しさから、衣のほころびも立ったまま縫い合わせたことから美々津の別の地名でもある「立縫(たちぬい)」という言葉が生まれたとされています。

 

 耳川を挟む対岸、港柱神社と権現山のある幸脇(さいわき)から凧を揚げ、海に漕ぎ出でる機会をうかがっていたところ、旧暦8月1日の夜明け前に最良の日だと判断。急きょ、出航命令を下され出発することなり、寝入っていた家々の戸を叩き「おきよ、おきよ」とふれまわって、出航に間に合わせたとされています。

 

 出航を見送る人々は、急いで用意していた餡(あん)と米粉の団子を一緒について混ぜた「つき入れ餅」を奉じ、一行を見送ったとされています。

 

 こうした故事にちなみ、美々津では毎年旧暦の8月1日に「おきよ祭り」が行われています。

 

 また、神武天皇の船は、美々津沖の岩礁・七ツ礁と一ツ神の間を通って大和に旅立ち、戻ってこなかったことから、今でも地元の漁師さんが漁に出るとき、ここは通らないという風習が残っています。

 

 美々津にある「立磐(たていわ)神社」は、東征出発の際に、一行の安全を祈念しふ頭に海上守護神である底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)、いわゆる〝住吉三神〟を奉祭したことにちなみ、12代景行天皇が創建されたとされています。

 

 境内には、神武天皇がしばし腰掛けて身を休めたとされる「御腰掛岩」が祀られています。

 

 昭和17年(1942)9月10日には、神武天皇の東征水軍が出発した聖地として、時の内閣総理大臣・米内光政(よないみつまさ)が揮毫(きごう)「日本海軍発祥之地」の碑が建立されています。

 神武天皇東征出発地は、明治政府が日向三代神陵を比定した鹿児島県にも、当然のごとく存在します。

 

 一カ所目が、鹿児島県霧島市福山町にある「宮浦宮(宮浦大明神社)」です。境内にある2本の銀杏の大木は、神武天皇の東征前の仮の宮居であったことを記念して植えられたと言われています。由緒書きには「古く、遠く神代の頃、神武天皇が東征に出発した地である」とあります。

 

 もう一カ所が、鹿児島県肝属郡東串良町にある「戸柱神社」です。東串良漁港(柏原の港)の丘にある神社で、境内に「神武天皇御発航伝説地」の石碑が建立されています。由緒書きの中で、「一説によれば神武天皇御東遷の際、準備発航の地である新川西字田畑の降神山(皇神山)に航海安全を祈って創建されたものを、約千年前に当地に遷座されたと言う」としています。

 

 鹿児島では「神武天皇は宮浦宮を出発し、柏原港からお船出をした。そして航海の途中で美々津に立ち寄った」ことになっているということです。高千穂峰に始まって、笠沙の岬、日向三代の御陵、東征出発の地と、日向神話に関するストーリーの全てが鹿児島県内で綺麗に完結するようにできています。

 

 一方、宮崎県総合政策部みやざき文化振興課記紀編さん記念事業推進室が運営するホームページ「神話のふるさと宮崎」によると、神武天皇は高原町の「皇子原」で生まれたとされ、幼少期、サノノミコトと呼ばれていました。高原町には、その名を冠した「狭野(さの)神社」、幼いころ遊んだとされる「御池」などがあります。

 

 東遷の際、宮崎市の「皇宮屋(こぐや)」で約30年を過ごし、45歳で日向の美々津港から出立しました。美々津に向かう途中、新富町の湯ノ宮で湯浴みをされ、そこで突き立てた杖が梅の木となり、「湯之宮座論梅」が生まれました。さらに都農町の「都農神社」で祈願し、美々津に到着した--とされています。

 

 神武東征に関しては、宮崎県内の聖蹟が上手に登場していい話だと思います。ただ、吾田邑(延岡)の高千穂宮で決めた東征だったとする記紀の記述からすると、少し矛盾を感じるのは私だけでしょうか。

 

 神武天皇に大和の地の素晴らしさを教えたシオツチノオジ(塩土老翁)は別名、コトカツクニカツナガサ(事勝国勝長狭神)と言います。ニニギノミコトを笠沙の岬に誘った吾田邑の国主であり、兄の釣り針を無くして困り果てていたホオリノミコト(山幸彦)を海神之宮に行かせた人です。

 

 吾田邑がどこであったかという論点にもつながるかもしれませんが、神武天皇らは吾田邑に住んでいて、すぐ南にあった良港、美々津からお船出したと素直に解釈した方が自然なように感じるのですが…。