• 2019.7.28

〝延岡新興の母〟野口遵翁の功績をたたえ生誕祭 延岡

 旭化成の創業者として延岡市発展の基礎を築いた野口遵翁の生誕祭が翁の誕生日である7月26日、同市旭町の旭化成向陽倶楽部で開かれた。市や市議会の代表、野口遵顕彰会(会長・清本英男延岡商工会議所会頭)の会員ら約80人が参加し、倶楽部玄関脇にある野口翁の銅像に祝い花を献花するなどして、その功績を讃えた。

 野口翁は、明治6年(1873)石川県金沢市生まれ。旭化成の前身である日本窒素肥料株式会社を創業。大正12年(1923)10月5日にカザレー式アンモニア合成法の事業化に成功し、日本工業史に残る偉業を成し遂げた。その後も次々と近代的化学工場を建設し、延岡市の産業、経済において多大な貢献を残した。

 また、昭和5年(1930)に延岡町、岡富町、恒富町の1町2村の合併を実現し、昭和11年(1936)の東海村、伊形村との合併にも尽力するなど、産業、経済はもとより、様々な面で延岡市の発展の礎を築き、今もなお「延岡新興の母」として讃えられている。

 生誕祭では、主催者を代表し顕彰会の佐藤彰洋副会長(延岡商工会議所副会頭)が「野口翁が大正12年にこの延岡でアンモニア合成工場を造ってから96年、この延岡が近代都市に大きく発展してきたことに、野口翁の偉業を顕彰し感謝したい」と述べた上で、野口翁の功績の一つである朝鮮半島での水資源開発と、その電力を利用した化学工業の経営について紹介し「翁の手腕、事業家としてのスケールの大きさにはただただ敬服するばかり」と話した。

 それによると、朝鮮半島から黄海に流れ込む鴨緑江(アムノック)の支流に目を付け、標高1000メートルを越える山脈に総距離28キロの隧道を掘り、その水を日本海側に逆流させるという奇抜な発想で、高低差を利用した水力発電所を人力で建設。30戸足らずの漁村だった興南(フンナム)に肥料工場をはじめ火薬、カーバイト、合成宝石、航空燃料、人造ゴムなどの工場を次々と建設し、総人口18万人の街に発展させた。

 さらに必要な電力を補うため、大規模ダムや発電所を建設。中でも水豊(スープン)ダムは幅900メートル、高さ170メートル、貯水池面積は琵琶湖の半分の345平方キロメートルという、人造湖として世界第2の規模を誇った。発電所に設置された発電機は1基で10万キロワットという世界最大のものだった、という。

 共催する延岡市の読谷山洋司市長は「野口翁の功績は延岡に限ったことではなく、我が国の化学業界の母というほどの大きな偉業を成し遂げた方。カザレー式アンモニア合成法はまだ学術論文の水準だったもの、実用化に至っていなかったものをいち早く見いだし延岡で事業化した。素晴らしい先見の明と困難を乗り越えてやりぬく、努力し続ける心に改めて敬意を表す」とあいさつした。

 旭化成延岡支社の濱井研史研史支社長は「旭化成の全てのDNAの源流は延岡にあり、野口翁の精神、功績が全てベースになっていることを強く認識している。旭化成を表す『人々の命と暮らしに貢献する』、『これまで世界になかったものを』などのスローガンはすべて野口翁がやってきたことに結びつく」と話した。

 顕彰会が実施する昨年の「第18回ジュニア科学者の翼」に派遣研修生として参加した聖心ウルスラ学園聡明中学校3年の中西彩弥子さんが、「野口翁が科学者として、事業者として偉大な功績を残されたこと、特に工業都市・延岡の基礎を築かれたことなどを学習して、その偉大さに感嘆するとともに、延岡に住んでいることを誇り思う」とした上で、「昨年の経験を通して、自分の夢を具体化して目標を持つこと、自分なりの価値観を持つこと、自分から行動を起こすことの重要性を知ることができた」とお礼のメッセージをと述べた。

 野口翁のミーム(文化を伝える意伝子)について紹介したテレビ番組のDVDを観賞した後、倶楽部の玄関脇にある銅像前に移動。佐藤顕彰会副会長、読谷山市長、濱井延岡支社長らを最初に、出席者が次々に銅像前に設けられた献花台に祝いの花を捧げた。

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