• 2019.7.2

日々ブログ~あぃ あむ ひむか人~Vol.11 日向神話の本舞台10

ニニギノミコトと西郷隆盛の「時空を超えた出会い」

 昨年のNHKの大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」では、終盤の第46話と第47話(最終回)に延岡が登場し、大きな話題となりました。

 その舞台となったのが、北川町俵野にある「西郷隆盛宿陣跡資料館」(県史跡・西郷南洲翁寓居跡)です。

 明治10年(1877)8月15日、国内最後の内戦となった「西南の役」で西郷隆盛率いる薩摩軍と政府軍は、延岡市の和田越で最後の激戦を繰り広げましたが、薩摩軍は善戦むなしく敗れました。

 敗れた西郷が宿陣したのが旧児玉熊四郎邸、現在の宿陣跡資料館でした。西郷は8月15日から17日夜まで宿陣し、その間に薩摩軍に解散布告令を出し、当時日本にたった一着しかなかった陸軍大将の軍服を焼きました。そして17日夜、夜陰にまぎれて可愛岳の包囲網を突破し故郷の鹿児島を目指したのです。

 資料館の館内では、薩摩軍に解散布告を出した最後の軍議の様子が等身大の人形で再現されているほか、当時の資料を参考に復元した陸軍大将の軍服、西南戦争の関連資料などを展示しています。

 資料館の存在は「西郷どん」放映前から県内外に広く知られるようになり、来館者が急増。2019年1年間で前年の10倍以上に当たる3万1384人が来館しました。

 さて、児玉邸をはじめ俵野一帯の民家に宿陣した西郷らに対し、政府軍は3日2晩、攻撃を仕掛けませんでした。

 和田越えの決戦では、薩摩軍3000人に対し、政府軍は約5万人と圧倒的な兵力で対抗しました。和田越えの決戦後は、政府軍が薩摩軍を遠巻きに取り囲み、道という道がふさがれ、西郷らは袋のネズミ同然でした。

 戦況は既に決していました。それなのになぜ、政府軍は3日も攻撃を仕掛けなかったのでしょうか。政府軍の兵力をもってすれば、戦争を一気に集結させることができたハズです。

 政府軍の陣頭指揮に立っていたのは陸軍中将・山県有朋でした。維新政府では、西郷と協力し軍制改革に当たっていた人です。西郷に対する最後の温情だったのでしょうか?

 実は、児玉邸のすぐ裏手には、ニニギノミコトの御陵墓参考地があります。幕末の禁門の変(蛤御門の変)で、京都御所に発砲した長州藩は朝敵とみなされ、第一次長州征討のきっかけとなりました。その際、蛤御門を守った薩摩藩側にいたのが西郷でした。長州藩出身の山県もそのことを十分知っていたと思われます。

 杉本隆晴さんは、延岡市副市長時代からこの空白の3日間について、「西郷が袋小路ともいえるこの地に宿陣したのは、児玉邸の裏手に皇室の先祖に当たるニニギノミコトの御陵墓があることを知っていたからであり、政府軍は攻撃ができなかったのではないか」と推察されていました。

 その後、西南戦争で西郷隆盛の食事番(飯炊き)として従軍した深江権太郎(深江熊助の少年時代の名前)が息子に語ったものをまとめた「南州翁の足軽籠かつぎ飯炊き西南ノ役従軍深江権太郎記」の中で、「可愛山陵の神様が薩軍を御救い下ださった所が多々有りました事は過言では無いと思います」との記述があることが分かりました。

 ほかにも、側近が高千穂に天の岩戸があり、天照大神の誕生地で村人の尊敬の的であることを調べていたとの記述もありました。事実、西郷軍(薩摩軍解散後は西郷軍となった)は可愛岳を突破した後、高千穂を経由して九州山脈を縦断する形で鹿児島を目指しています。

 また、西郷隆盛のひ孫の西郷隆夫さんも、延岡を訪れた際に「諸説ありますが、天孫ニニギノミコトの御陵に向けて大砲を撃ち込むことはできなかったから、という話を父よりずっと聞かされてきました」と語っておられます。

 明治政府が鹿児島県薩摩川内市の新田神社をニニギノミコトの御陵墓に比定した明治7年(1874)、西郷はすでに下野して鹿児島に帰っており、明治政府の比定を知らなかった可能性があります。

 すなわち、明治政府が新田神社を比定する以前は、俵野の経塚古墳こそが御陵墓であるとの共通認識が、西郷らにはあったのではないでしょうか。

これらにより、西郷資料館と御陵墓周辺は今、ニニギノミコトと西郷隆盛が「時空を超えて出会った」聖地となっているのです。

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