• 2019.7.1

日々ブログ~あぃ あむ ひむか人~Vol.10 日向神話の本舞台9

可愛山陵はどこか

 延岡市北川町にある可愛岳(えのたけ、727メートル)の頂上付近に鎮座する「鉾岩」を見たのは、2010年11月3日に地元が主催して開いた登山会が最初でした。

 高千穂に降臨した天孫・ニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)が笠沙の岬でコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売)と出逢い、結婚し、神武天皇につながる3人の子供たちが生まれます。

 しかし、永遠の命の象徴だった姉のイワナガヒメ(石長比売)を送り返したことで、天つ神に寿命ができました。ニニギノミコトに死が与えられました。

 では、ニニギノミコトのお墓(御陵墓)はどこにあるのでしょうか? 「天孫降臨の地・高千穂はどこか」や「笠沙の岬はどこか」と同様に、日向神話を語る上で重要な論点になっているのです。

 可愛岳の麓には、宮内庁がニニギノミコトの御陵墓の参考地と認めた経塚古墳があります。また、可愛岳頂上付近には巨石遺跡が点在し、そこにある鉾岩、もしくは三本岩が御陵そのものとの説もあります。

 御陵墓とされる場所は、各地にあります。明治政府が比定した鹿児島県薩摩川内市の新田神社の社殿の背後にある可愛山陵が有名ですが、そのほか、西都市の男狭穂塚(おさほづか)や、延岡市内でも天下町の天下神社にある1号古墳などがそうです。

 そこで、可愛岳の御陵を自ら確認すべく登山会に参加したのです。

 「頂を思わせるような大きな岩がせり出し、そのてっぺんに鉾先状の奇岩が、誰かが故意に立てたような形で配置されている」

 「広大な日向灘はもとより、延岡市内、遠くは日向市内までを見渡せる孤高の場所にデーンと鎮座する『鉾岩』。天を突くぐらい巨大な神様が、まるで真上からそっと岩を置いたかのようだ。その様子を間近に見て、胸が高鳴った」

 その時の感想を、自社発行のフリーペーパー「0982」に掲載しました。。鉾岩からは笠沙山(愛宕山)を含む延岡平野が見渡せ、遠くは日向市内まで遠望できます。現地を実際に訪ねてみて、なんとも表現しがたい底知れぬパワーを感じました。

 日本書紀には、ニニギノミコトの埋葬地に関して「久(ひさ)にありて天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)崩(かむあが)りましぬ。因(よ)りて筑紫日向(つくしひむか)可愛(え)此をば埃(え)と云ふ。之山陵(のみささぎ)に葬りまつる」とあります。

 ニニギノミコトは死後、日向国の可愛之山陵(えのさんりょう)に葬られたとハッキリ記述しています。

「可愛」と書いて「え」と読みます。日本国内でこの名前を持つ山は延岡市の可愛岳とその麓の集落だけだそうです。

 また「延喜式」(927年)に「日向埃山陵。天津彦彦火瓊瓊杵尊、在日向国、無陵戸」とあります。同じ「延喜式」には「凡そ日向・大隅・薩摩・壱岐・対馬等の国島の博士・医師は…」との記述があり、可愛山陵は日向国であり大隅国、薩摩国を含むものではないことが分かります。

 江戸時代の享和2年(1802)には、内藤家12代延岡藩主内藤政韶が可愛岳の調査を試み、地元で鬼の築山と呼ばれる塚こそ御陵墓であると述べたとされています。鬼の築山は現在の経塚古墳です。

大正から昭和初期に周辺の巨石群を調査した考古学者・鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)博士は、この経塚古墳について「有石棺古墳」ではないかとしています。

 また、延岡藩の国学者・樋口種美は延喜式の記述にある「無陵戸」を取り上げ、陵戸とは御陵の守り人であり、可愛山陵は誰も守る人のないところにあるとし、三本岩が御陵そのものとしました。

 「宮崎縣史跡調査」の可愛神社(可愛権現神社)の項によれば、「ニニギノミコトの崩御があって、可愛山頂に埋葬したところを鉾岩と云う。ここに崇神天皇の御宇に社殿が建立されたが、参路が峻険で参拝が至難のため、平易な地へ社を創建して、そこから遙拝したのがはじまりである」とされています。

 これに対し、明治新政府は明治7年(1874)、日向神代三陵(神代三山陵)として新田神社の可愛山陵のほか、高屋山上陵(鹿児島県霧島市溝辺町)をホオリノミコト(天津日高彦火火出見尊)、吾平山上陵(鹿児島県鹿屋市)をウガヤフキアエズノミコト(天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊陵)の陵にそれぞれ治定しました。

 本居宣長の古事記伝などの影響に加え、「日向」が、日本書紀編さん当時は大隅、薩摩をも含んでいたこと、明治維新を先導した薩摩藩士が時の政府の中枢にいたこと、当時の延岡藩には財政的余裕がなく御陵があることがかえって迷惑とする風潮があったことなどが挙げられます。

 これらにより孫降臨の地・高千穂、笠沙の岬含め初代天皇・神武天皇につながる皇祖の遺跡は全て、鹿児島県内にあることになり、辻褄が合うことになります。

 しかしその後、国学者や宮内庁の調査官の調査により、やはり北川の可愛岳が有力という結論が出され、明治28年(1895)に「御陵墓」となり、大正15年(1926)に「陵墓参考地」と改称されました。

 地元では、〝俵野(ひょうの)〟の地名はコノハナサクヤヒメが火中出産したことにちなみ「火生野」が転じたものとされています。

 天孫降臨の地が高千穂で、降臨したニニギノミコトは五ヶ瀬川を下り笠沙の岬(愛宕山)にたどり着き、3人の皇子が生まれ、その地で永遠の眠りについた。鹿児島説に負けないほど、いやそれ以上に辻褄が合うと思いませんか?

 「北川町史」によれば、可愛神社近くの成就寺がある場所には、以前は可愛寺という寺があり、10代の崇神(すじん)天皇および11代の垂仁(すいにん)天皇が、ニニギノミコトの可愛山陵を奉祭するために、勅使(天皇の御使)が参向したとき、仮泊所としたところであると伝えられています。

 三重大学名誉教授の宮崎照雄さんは陵墓参考地にはかつて2基の円墳があり、1基は破壊され、残りの1基が宮内庁指定の経塚であるとし、「2基の円墳の主は瓊瓊杵尊と木花開耶姫と比定しても不合理ではないのではないか。私は『陵墓参考地』に残る塚こそ、瓊瓊杵尊か木花開耶姫の陵墓であると考える」としています。

 また、可愛岳山頂付近の奇岩については、「瓊瓊杵尊の依代(現代流に言えば墓標)であり、山頂に何らかの遺品を埋納し、遺骸はその麓に葬られたとしたい」と分析しています。

 私も伝承はもとより、文献的にも俵野の「陵墓参考地」こそ、ニニギノミコトのお墓という可能性が極めて高いように思います。

延岡市北川町俵野にあるニニギノミコト御陵墓

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