• 2019.6.21

日々ブログ~あぃ あむ ひむか人~Vol4 日向神話の本舞台3

天孫降臨の高千穂はどこか

 「天孫降臨の高千穂はどこか」を考えてみましょう。日本神話の天孫降臨伝説に描かれる高千穂に関しては「西臼杵高千穂説」と高千穂峰がある「霧島山説」の2説があります。

杉本さんによると、奈良、平安時代の記述などを見ると、西臼杵高千穂説が有力なのですが、鎌倉時代辺りから霧島山説が浮上。昭和14年(1939)に編さんされた鹿児島県史では、「襲の高千穂は西臼杵郡の高千穂を指すものではない事が明白」とまで断言しています。実はこの「襲」(そ)という記述が食わせ物のようなのです。

西臼杵高千穂説

文献を見てみましょう。

古事記には「竺紫日向之高千穂之九士布流多気」に「天降りあそばされた」と記されています。

「竺紫」は筑紫、今の福岡県付近のことで九州を示しています。「日向」は日向国、当時は今の宮崎県と鹿児島県が日向国でした。「九士布流」は「くしふる」と読み、「多気」は「嶺」「嶽」(たけ)の意味です。高千穂町にある「槵觸(くしふる)神社」付近とされています。

つまり、九州の日向国高千穂にある「くしふるたけ」に降臨したと書いてあるのです。

日本書紀では前回のブログで紹介したように、「日向襲之高千穂峯」」、「筑紫日向高千穂槵觸峯」、「日向槵日高千穂峯」、「日向襲之高千穂槵日二上峯」、「日向襲之高千穂添山峯」といくつかの説が併記してあり、降臨地に若干の違いがあるにせよ、「日向」の「高千穂」という点では共通しています。

鎌倉時代中期にできた日本書紀の注釈書「釈日本紀」(しゃくにほんぎ、卜部兼方著)には、日向国風土記にある次のような記述が引用されています。

「臼杵郡内知鋪郷(うすきのこおりのうちちほのさと) 天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) 離天磐座(あめのいわくらをはなれ) 排天八重雲(あめのやえくもをおしわけ) 稜威之道別道別(いずのちわきちわきて) 天降於日向之高千穂二上峰(ひゅうがのたかちほのふたがみのたけにあもりましき)…」

この文章を現代文的に直すと「臼杵の郡の内、知鋪(ちほ=高千穂)の郷。天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、天の磐座(いわくら)を離れ、天の八重雲を排(おしの)けて、稜威(いつ=神聖なこと)の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯(高千穂町にある二上山)に天降りましき」となります。

風土記は、奈良時代初期の官選の地誌で、元明天皇の詔(みことのり)により各令制国の国庁が編さんしたものです。この風土記の引用は、鎌倉時代に萬葉学者・仙覚が著した万葉集の注釈書「萬葉抄」の中にも見られます。

天皇から風土記編さんの詔が出る前の和銅6年(713)、日向国は日向国、大隅国、薩摩国に分離されており、この日向国風土記は現在の宮崎県内に限定した最も古い地誌といえます。

平安時代になると、国史である六国史(日本書記もその一つ)の中に、西臼杵の高千穂と霧島山の違いを見ることができます。当時は日向国の高千穂と大隅国の霧島が明確に区別されていたことが見て取れます。

「続日本後紀」(837年)では、高千穂は「日向国無位高智保皇神-従五位下」とあり、霧島に関しては「霧嶋岑神(きりしまたけじん)-官社」と記されています。

その後の「日本三代実録」(858年)では「高智保神-従四位上」となっているのに対し、「霧島神-従四位下」となっており、高千穂神社が無位から従四位に格上げになり、霧島神社よりも官位が上になっていたことが分かります。

霧島山周辺はご存じのように活火山で、古来から信仰の対象とされてきました。霧島山信仰は、ここで修業し霧島六社権現を創建した天台宗の僧・性空上人(しょうくうしょうにん、910-1007)による影響が大きく、性空上人の流れをくむ修験者たちの修行の地となっていきました。

室町時代には「長門本-平家物語」の中に、「日本最初の峰、霧島のたけと号す」という文が出てきます。霧島山説をとる学者は、この内容から「高千穂峰」のことを言っているとしていますが、西臼杵高千穂説の学者は「高千穂という名前があるなら高千穂と書くべきじゃないか。高千穂という名称が無かったから『最初の峰』としている」と反論しています。

杉本さんは「私見ですが、弟子の修験者たちが性空上人が修業した霧島山を神格化したいという意思もあって加筆したのかなと思う」と話しています。

こうしたことから宮崎県は大正13年(1924)3月に公表した「史蹟調査報告」の中で、「現下学会の斉しく認める所は、西臼杵郡説を以って真の伝説地なりとするに一定したるものの如し」と裁定。西臼杵郡の高千穂こそが、記紀において伝承された天孫降臨の地であるとして、霧島山説を切って捨てています。

霧島山説

一方、霧島山説は鎌倉時代の百科事典とも言える「塵袋」(ちりぶくろ、作者未詳)に、「皇祖褒能忍耆命(こうそほのににぎのみこと) 日向国囎唹郡高茅穂槵生峰(ひゅうがのくにそおぐんたかちほのみね)にあまくだりまして是より薩摩国閼馳郡駞竹屋村(さつまのくにあたぐんたけやむら)にうつり玉ひと…」とあるのが最初です。

ここに出てくる「囎唹郡」が、霧島山の西にある鹿児島県曽於郡(そうぐん=現・曽於市)に当たると解釈されています。

にわかに霧島山説が発言力を持ってくるのが、江戸時代です。

6代将軍・徳川家宣の侍講として幕政を実質的に主導した新井白石が元禄5年(1692)、高千穂峰に登頂した深見作左衛門ら3人の登頂体験を代作した「霧島嶽の記」の中で、高千穂峰にある〝天の逆鉾〟のことを具体的に紹介。「あい伝えて言うには、これは天孫が天降りされた時、これをもって標しとされた。古のいわゆる国柱である」と書いた影響が大きかったようです。

「古事記傳」を書いた本居宣長は、悩んだ末に「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし」と記述。簡単に言えば、どちらも高千穂で、どちらかに決めるのは無理だとしました。

さらに、この悩み解決のために「最初に高千穂に降臨し、それからずっと下がって再び高千穂峰に降臨した」という高千穂移動説を提示しています。

霧島説に決定的なインパクトを与えたのが、幕末の英雄・坂本龍馬です。負傷した龍馬は西郷隆盛らの勧めで、おりょう(楢崎龍)を連れて静養のため鹿児島を訪れ高千穂峰に登頂した際、天の逆鉾を引き抜いてみせ「ここは天孫降臨の地だ」と言ったそうです。

「日本最初の新婚旅行」と言われるほど有名なこのエピソードは、霧島高千穂説を大きく後押ししたと言っても過言ではないでしょう。

このため昭和14年(1939)に編さんされた鹿児島県史では、日本書記にある「襲」(そ)は熊襲の襲、「豊後国風土記・肥前国風土記・肥後国風土記等にある球磨・囎唹・球磨・贈於・玖磨囎唹の贈於であり、後の囎唹の地であろうから、後世永く霧島山の西にある囎唹郡に比定しても支障がないことであろう」と断定。

さらに「日本書紀に見ゆる襲の高千穂が、遙か北方に隔たった日向国臼杵郡の高千穂を指すものとは考えられない。即ち、襲の高千穂は臼杵郡の高千穂を指すものではない事が明白と云われよう」として、西臼杵高千穂説を完全否定しています。

西臼杵高千穂説は、文献的には極めて信憑性が高いと言えますが、霧島山説は江戸時代から明治維新にかけて国を牽引した人たちの言動が、大きく影響していると言わざるを得ませんね。

「うちらが絶対正しい、相手の言っていることは嘘だということではない。両方正しい。そう思ってください」という杉本さんを含め、〝心優しい〟宮崎県民との県民性の違いを痛感します。

さて、あなたはどちらの高千穂説を支持しますか?

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